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相互受動性 資料 [ジジェク]

「ラカンはこう読め」より

2.相互受動的な主体   マニ車を回すラカン

 コロスとは何でしょうか。それは「あなただ」という人もいるでしょうし、「それはあなたではない」という人もいるでしょうが、問題はそういうことではありません。ここで問題なのは手段、それも感情の手段なのです。私の言いたいのは、コロスとは感動している人々だということです。

 ですから、劇において浄化されるのは観客の感情だと決めつける前に、劇をもう一度よく見てください。最終的に、劇的効果によって感情だけでなくその他のものも鎮められなくてはなりませんが、その時に感情も浄化します。でもこれは、感情が直接浄化されるということではありません。感情が浄化されることは疑いありませんし、観客は使われる素材の状態になっていますが、同時に、まったく無関心な素材の状態でもあります。あなたは夜に劇場にいるとき、ちょっとしたこと、たとえば昼間なくした万年筆のことや、次の日署名しなくてはならない小切手のことを考えているでしょう。観客なんてその程度のものです。舞台の健康な状態が、あなたの感情の面倒をみてくれます。コロスが面倒をみてくれます。コロスが感情的注釈を与えてくれるのです。(『精神分析の倫理』下 p128)

 
 ラカンがここで描いているのはごくありふれた情景だ。人びとが劇場でギリシア悲劇の上演を楽しんでいる。だがラカンの解釈は、そこではなにか奇妙なことが起きていることを暴露する。すなわち、われわれの心の奥から自然に湧き上がってくる、泣くとか笑うといった感情や反応を誰か他人--この場合はコロス--が引き取り、われわれの代わりに経験してくれるらしい。いくつかの社会でこれと同じ役割を演じているのが、いわゆる「泣き女」(葬儀で泣くために雇われる女性たち)である。彼女たちが、死者の親類たちに代わって、嘆き悲しむという光景を演じてくれるおかげで、親類はもっと有益なこと(たとえば遺産の分割)に時間を使うことができる。チベットのマニ車においても、これと似たようなことが起きている。経文の書かれた紙を車につけて機械的に回せば(もっと実用的なマニ車だと、風や水の力で回る)、マニ車が私の代わりに祈ってくれるのだ。スターリン主義者ならばこう言うだろう--たとえ私の頭は猥褻きわまりない性的空想に耽っていたとしても、「客観的」には私は祈っているのだ。そうしたことが起きるのは、いわゆる「未開」社会だけではない。テレビのお笑い番組の、録音された笑い声を思い出してみよう。おかしな場面に対する笑いの反応が、あらかじめサウンドトラックに録音されている。たとえ一日のツライ労働の後で疲れ果てた私が、笑わずにただ画面をじっと観ていたとしても、番組が終わったときには、サウンドトラックが私の代わりに笑ってくれたおかげで、私はずいぶん疲れがとれたような気になる。

 この奇妙なプロセスを正しく把握するためには、相互能動性=双方向性(interactivity)という最新流行の概念を、その不気味な分身である相互受動性(interpassivity)によって補完しなくてはならない。最新の電子メディアによってテクストあるいは芸術作品の受動的消費は終わったとよく言われる。人びとはもはやたんにスクリーンを眺めているだけではなく、積極的に参加し、スクリーンと対話する(プログラムを選ぶ、ヴァーチャル・コミュニティの討論会に参加する、さらに、いわゆる「双方向小説」では直接に物語の結末を決める)。この新しいメディアの民主主義的潜在力を礼賛する人々はたいてい、まさしくそうした特徴に注目している--サイバースペースにおいては、人々は、他人が演じる見世物をただ観ている受動的観客の役割を脱ぎ捨て、能動的に見世物に参加するだけではなく、見世物のルールを決めることにも参加するのだ、と。

 そうした双方向性の裏返しが相互受動性である。(たんに受動的にショーを見ている代わりに)能動的に対象に働きかけるという状況を裏返せば、次のような状況が生まれる。すなわち、対象そのものが私から私自身の受動性を奪い取り、その結果、対象そのものが私の代わりにショーを楽しみ、楽しむという義務を肩代わりしてくれる。強迫的に映画を録画しまくるビデオ・マニア(私もそのひとりだ)ならほとんど誰もが知っているはずだ。--ビデオデッキを買うと、テレビしかなかった古き良き時代よりも観る映画の本数が減るということを。われわれは忙しくてテレビなど観ている暇がないので、夜の貴重な時間を無駄にしないために、ビデオに録画しておく。後で観るためだ(実際にはほとんど観る時間はない)。実際には映画を観なくとも、大好きな映画が自分のビデオ・ライブラリに入っていると考えるだけで、深い満足感が得られ、ときには深くリラックスし、無為(far niente)という極上の時を過ごすことができる。まるでビデオデッキが私のために、私の代わりに、映画を観てくれるかのようだ。ここではビデオデッキが<大文字の他者>、すなわち象徴的登録の媒体を体現している。今日ではポルノですらますます相互受動的な働きをしている。もはやポルノ映画はユーザーを興奮させ、孤独な自慰行為に駆り立てるための手段ではない。「行為がおこなわれている」スクリーンを観ているだけで充分であり、私の代わりに他人がセックスを楽しんでいるのを観察するだけで、私たちは満足する。

 相互受動性の例をもうひとつ挙げよう。誰かが悪趣味なつまらない冗談を言い、まわりが笑ってくれないと、「こいつは面白い!」とか言いながら自分ひとりで大笑いする、という誰もが知っている気まずい状況だ。その人物は、聴衆に期待された反応を自分でやってみせたのだ。この状況は、あらかじめ録音された笑いと似ているが、やはり違う。どちらの場合においても、たとえ全然面白いと思わなくても、われわれは代理人を通じて笑っているわけだが、ひとりで大笑いする場合はその代理人が無名の<大文字の他者>、すなわち目に見えない人工的な大衆ではなくて、冗談を言った本人だ。彼の強迫的な笑いは、われわれがつまずいたり何か馬鹿げたことをしでかしたりするときに思わず口にする「おっと!」に似ている。この「おっと!」の不思議なところは、私の失態を目撃した誰か他人が私の代わりに「おっと!」と言うことも可能であり、実際それでうまくいくということである。「おっと!」の機能は、私の失態の象徴的登録を実行することであり、私の失態を仮想的な<大文字の他者>に知らせることである。

 次のような微妙な状況を思い出してみよう。閉ざされた集団の全員がある醜悪な事実を知っている(しかも「全員が知っている」ということを全員が知っている)。にもかかわらず、誰かがその事実を不注意に口にすると、全員が動揺してしまう。なぜか。口にされたのは誰にとっても耳新しい事実ではないにもかかわらず、どうして誰もが当惑するのだろうか。それは、知らないふりをする(知らないかのようにふるまう)ことができなくなったから、いいかえれば、いまや<大文字の他者>がそれを知っているからだ。そこにハンス・クリスティアン・アンデルセンの「はだかの王様」の教訓がある。見かけの力をけっして見くびってはならない。うっかり見かけを攪乱してしまうと、見かけの裏にある物自体が壊れてしまうことがある。

 この相互受動性の対極にあるのが、ヘーゲルのいう「理性の狡知(List der Vernunft)」である。そこでは、私は<大文字の他者>を通じて能動的である。私は受動的なまま後ろに下がって座っており、<大文字の他者>が私の代わりになんでもやってくれる。私はハンマーを鉄で打つ代わりに、機械がやってくれる。私が自分で水車を回す代わりに、水がやってくれる。私と、私が働きかける対象との間に、別の自然な対象を挿入することによって、私は目的を達成する。同じことは人間と人間のあいだでも起こりうる。私はじかに敵を攻撃する代わりに、彼と別の人間とのあいだに諍いが起こるように仕向け、彼ら二人が互いを滅ぼし合うのを遠くから眺めていればいい(ヘーゲルによれば、そのようにして絶対的な<観念>は全歴史を通じて支配する。観念は闘争の外側にいて、人間の熱情が互いに闘うよう仕向けている。古代ローマにおける共和制から帝政への移行の歴史的必然性は、ユリウス・カエサルの情熱と野心を道具として用いることで実現された)。それとは反対に相互受動性においては、私は<大文字の他者>を通じて受動的である。私は自分の経験の受動的な側面(楽しむこと)を<大文字の他者>に譲り渡し、私自身は能動的に働き続ける(私が夜遅くまで働いている間に、ビデオデッキが私の代わりに受動的に楽しんでいる。泣き女たちが私の代わりに嘆き悲しんでいる間に、私は死者の遺産の配分を考えている)。これらのことは偽りの行動(false activity)という概念を思い出させる。人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これこそが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。精神分析治療において、強迫神経症者は休みなくしゃべり続け、逸話や夢や思いつきを次から次へと分析家に浴びせる。彼らの絶え間ない活動はその背後にある恐怖、すなわち、もし一瞬でも話すのをやめたら分析家は核心を突く質問をしてくるだろう、という恐怖に支えられている。いいかえると、彼らは分析家を黙らせておくためにしゃべり続けるのだ。

 今日の進歩的な政治家の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないなようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判の第一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。

 この偽りの能動性と似たものは、プロテスタントの<予定説>にも見出される。<予定説>の逆説は、われわれの運命はあらかじめ決まっており、われわれが救済されるか否かはわれわれの行為と関わりがないと主張する神学が、資本主義、すなわち人類の歴史において最も狂乱的な生産活動の引き金となった社会システムの合法化として役に立ったということである。物事はあらかじめ決まっているという事実そのものが、すなわち、われわれは運命の受動的な犠牲者にすぎないという事実そのものが、われわれを絶え間ない熱狂的な活動へと駆り立てる。われわれは<大文字の他者>(この場合は神)の不変性を支えるために働き続けるのである。

 このように、われわれが心の一番奥底に秘めている感情や態度を、なんらかの姿をした<大文字の他者>のもとへと移し替えるということが、ラカンのいう<大文字の他者>の概念のいちばんの中核にある。それは感情だけではなく信仰や知識にも当てはまる。すなわち<大文字の他者>はわれわれの代わりに信じたり知ったりすることができる。このような、主体の知を他者の知に置き換えるという行為を説明するために、ラカンは<知っていると想定される主体>という概念を導入した。テレビの「刑事コロンボ」シリーズでは、犯罪--殺人行為--があらかじめ詳細に描かれる。したがって、解かれるべき謎は「誰がやったか」ではなく、刑事がいかにして欺瞞的な表面(フロイトの夢理論の用語を使えば、犯罪場面の「顕在内容」)と犯罪についての真理(その「潜在思考」)を結びつけるか、彼がいかにして犯人にその罪を証明するか、である。「刑事コロンボ」シリーズが大ヒットしたという事実は、刑事の仕事に対する関心の真の源泉が、謎の解明のプロセスそのものであって、その結果ではないことを証明している。

 この特徴よりももっと重要なのは、誰がやったのかをわれわれ視聴者はあらかじめ知っている(じかに目撃するのだから)ということだけでなく、理由はわからないが、刑事コロンボもまたすぐにそれを見抜くということである。犯行現場を訪れ、犯人に出会った瞬間、彼は絶対的確信を得る。犯人がそれをやったのだということを、彼はたんに知っている。彼はその後、「誰がやったのか」という謎を解くためではなく、犯人の罪をいかにして犯人に証明するかをめぐって、努力するのである。普通の順序が奇妙に逆転されているのだが、ここには神学的な意味がある。真の宗教的信仰においては、私はまず神を信じ、それから、自分の信仰を根拠として、自分の信仰の真実性を示す証拠が得られるようになる。ここでもまた、コロンボは、神秘的な、だがそれにもかかわらず絶対的な確信によって、誰がやったのかを最初から知っており、しかる後に、この絶対的な知にもとづいて、証拠を集めていくのである。

 多少の違いはあるが、精神分析治療において、<知っていると想定された主体>としての分析家はそれと同じ役割を演じる。患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る(これが意味しているのはたんに、患者は秘密を隠しているという罪悪感を最初から抱いており、彼の行動には実際に隠された意味がある、ということだ)。分析家は経験主義者ではない。さまざまな仮説を駆使して患者を探り、証拠を探すわけではない。そうではなく、分析家は患者の無意識的欲望の絶対的確信(ラカンはそれをデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に譬えている)を体現しているのだ。ラカンによれば、自分が無意識の中ですでに知っていることを分析家に移し替えるという、この奇妙な置換こそが、治療における転移現象のいちばんの中核である。「分析家は私の症候の無意識的な意味をすでに知っている」と仮定したときはじめて、患者はその意味に到達できる。フロイトとラカンの違いはどこにあるか。フロイトは、相互主観的な関係としての転移の心的力学に関心を向けた(患者は父親に対する感情を分析家に向ける。だから患者が分析家について語っているとき、「じつは」父親について語っている)。ラカンは、転移現象の経験的豊富さにもとづいて、仮定された意味の形式的構造を推定した。

 転移は、より一般的な規則の一例にすぎない。その規則とは、新たな発明というのは、過去の最初の真理に戻るという錯覚的な形式においてのみなされるということである。プロテスタンティズムに話を戻すと、ルターはキリスト教の歴史において最大の革命を成し遂げたが、彼自身は、数世紀にわたるカトリックの堕落によって不明瞭になっていた真理を掘り起こしただけだと考えていた。民族復興についても同じことがいえる。民族集団が国民国家を建設するとき、彼らはふつうこの政体を古代の忘れられた民族的ルーツへの回帰として公式化する。彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。歴史家ならだれでも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルト[巻きスカート]は十九世紀に発明されたものである。

 ラカンの多くの読者が見落としているのは、<知っていると想定される主体>というのは、副次的な現象であり、ひとつの例外にすぎない。つまりそれは≪信じていると想定された主体≫というより根本的な背景の前にあらわれるということである。この≪信じていると想定された主体≫こそが象徴的秩序の本質的特徴である。ある有名な人類学者の逸話によれば、迷信的な信仰(たとえば自分たちの祖先は魚あるいは鳥だという信仰)をもっているとされる未開人が、その信仰について直接尋ねられた際、こう答えたという。「もちろんそんなことは信じていない。私はそんなにばかじゃない。でも先祖の中には実際に信じていた人がいたそうだ」。要するに、彼らは自分たちの信仰を他者に転移していたのである。われわれも子どもに対して同じことをしているのではなかろうか。われわれがサンタクロースの儀式をおこなうのは、子供が信じている(と想定される)からであり、子どもを失望させたくないからだ。いっぽう、子どものほうも、おとなを失望させないために、そして子どもは素朴だというわれわれおとなの信仰を壊したくないために(そしてもちろん、ちゃっかりプレゼントをもらうために)、信じているふりをする。「本気で信じている」他人を見つけ出したいというこの欲求は、同時に、他者に宗教的あるいは民族原理主義者を押したいという欲求を駆り立てるのではなかろうか。なにか不気味なかたちで、ある種の信仰はつねに遠くで機能するように見える。信仰が機能するためには、何かそれの究極の保証者、真の信者がいなければならない。だがその保証者はつねに遠ざけられ、疎んじられ、本人があらわれることはけっしてない。では、いかにして信仰は可能なのか。この遠ざけられた信仰の悪循環はいかにして短絡するのか。むろん重要な点は、信仰がちゃんと機能するためには、素直に信じている主体が存在する必要はまったくないということだ。その主体の存在を仮定するだけでいい、その存在を信じるだけでいいのだ。それは、われわれの現実の一部ではない、神話的な創造者という形であってもいいし、人格を保たない役者であってもいいし、不特定の代理人でもいいのだ。「彼らはこう言っている/そう言われている」。

 少なくともこれが今日の、つまり「ポスト・イデオロギー的」とみずから称している時代における、信仰の支配的な状況だと思われる。ニールス・ボーアは、「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインに対し、的確な答えを返した(「何をすべきかを神に命令するな」)が、彼はまた、物神崇拝的な信仰否認がいかにしてイデオロギー的に機能するかについて完璧な例を提供してくれる。ボーアの家には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」。おそらくこれが、生活と世界の中心的カテゴリーとして「文化」が浮上してきた理由である。宗教に関していえば、われわれはもはや「本気で信じて」はおらず、自分が属している共同体の「ライフスタイル」への敬意の一部として、たんに(さまざまな)宗教的儀式や行動に従っているにすぎない(たとえば、信仰をもたないユダヤ人が「伝統に敬意を表するため」にユダヤの伝統的料理規則に従う)。「本気で信じてはいない。たんに私の文化の一部なのだ」というのが、われわれの時代の特徴である、遠ざけられた信仰の一般的な姿勢であろう。「文化」とは、われわれが本気で信じず、真剣に考えずに実践していることすべてを指す名称である。だからこそわれわれは原理主義的な信者たちを、本気で信じている「野蛮人」だ、反文化的だ、文化への脅威だとして軽蔑するのだ。

 どうやらわれわれがここで論じているのは、ずっと昔にブレーズ・パスカルが描き出した現象のようだ。パスカルは、信仰を持ちたいのに信仰への飛躍がどうしてもできない非信者への助言の中で、こう述べている。「跪いて祈り、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」。あるいは、現代の「断酒会」はもっと簡潔にこう言っている。「できるふりをしろ。できるようになるまで」。しかし今日、文化的ライフスタイルへの忠誠心から、われわれはパスカルの論理を逆転する。「あなたは自分が本気すぎる、信じすぎると思うのですね。自分の信心が生々しく直接的すぎるために息苦しいのですね。それならば跪いて、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰を追い払うことができるでしょう。もはや自分で信じる必要はないのです。あなたの信仰は祈りの行為へと対象化されたからです」。つまり、自分の信仰を大事にするのではなく、信仰が侵入してくるのを追い払い、一息つくスペースを確保するために跪くのだとしたらどうだろう。信じる--媒介なしに直接に信じる--という苦しい重荷を、儀式を実践することによって誰か他人に押しつけてしまえばいいのだ。(結婚…愛がなくても結婚的生活によって愛が生まれる・・・ではなく、相手を愛しすぎないように儀式化するために結婚する)

 ここから、われわれは象徴的秩序の次なる特徴、すなわちその非心理的な性質へと向かうことになる。私が他人を通じて信じる時、あるいは自分の信仰を儀式へと外在化し、その儀式に機械的に従うとき、あるいはあらかじめ録音された笑いを通じて笑うとき、あるいは泣き女を媒介して喪の仕事をおこなうとき、私は内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。そこに、われわれが「礼儀」と呼ぶものの謎に満ちた状態がある。私は知人に会うと、手を差し出し、「やあ(会えてうれしいよ)、元気?」と言う。私が本気で言っているのではないことは、両者とも了解している(もしその知人の心に「この人は私に本当に関心を持っているのだろうか」という疑念が芽生えたら、その人は不安になるだろう。彼の個人的なことに首を突っ込もうとしているのではないか、と。古いフロイト的なジョークを言い換えるとこうなる。「どうして会えてうれしいなんて言うんだ? 会えてうれしいと本気で思っているくせに」)。ただし、私の行為を偽善的と呼ぶのは誤りだ。別の見方をすれば、私は本当にそう思っているのだから。礼儀正しい挨拶は、われわれ二人の間にある一種の契約を更新しているのだ。同様に、私はあらかじめ録音された笑いを通じて「本気で」笑っているのである(それが証拠に、私は実際に気分が楽になる)。

 これが意味するのは、私が自分の選んだ仮面(偽りの人格)を通じて演じる感情は、どういうわけか、自分自身の内部で感じていると思っている感情よりもずっとリアルだということである。自分自身の偽りのイメージを作り上げ、自分が参加しているヴァーチャル・コミュニティでそのイメージを使うとき(たとえば性的なゲームでは、内気な男はしばしば魅力的で淫蕩な偽人格 screen persona をまとう)、その偽人格が感じ、装う感情はけっして偽りのものではない。真の自己(だと自分で思っているもの)がそれを感じているわけではないにもかかわらず、ある意味ではそれは本物の感情である。たとえば私は心の奥底ではサディストで、他の男をぶちのめし、女を強姦することを夢想しているとする。実生活において、他人に対しこの真の自己をあらわすことは許されていない。そこで私はもっと謙虚で礼儀正しい仮面をかぶる。この場合、実生活における態度の方が仮面で、私の真の自己は、私が虚構の偽人格として選んだものの方に近いのではなかろうか。逆説的だが、私がまさにこの事実を実感するのは、サイバースペースで、つまり真の自己をあらわせるような虚構の中で動いている時だ。これこそ、他の何にもまして、ラカンが「真理は虚構のような構造をしている」という言葉によって言わんとしたことである。真理の虚構性によって、われわれはまた「実話」を描くテレビ番組の虚偽を明快に説明することができる。そこで描かれた生活は、カフェイン抜きのコーヒーと同じくらいリアルだ。要するに、たとえそうした番組に描かれたものが「本当のこと」だとしても、人びとはその中で依然として演技している。彼ら自身を演じているのである。小説の標準的な「断り書き」(「この小説の登場人物はすべて架空であり、実在の人物と似ていたとしてもそれはまったくの偶然です」)は、実話ものの出演者にも当てはまる。彼らは、たとえ実際に彼ら自身を演じているとしても、架空の登場人物なのである。あるスロヴェニアの作家が最近用いた、「断り書き」の皮肉なパロディは、実話テレビ番組への最良のコメントになっている。「以下の小説の登場人物はすべて架空であり、実在ではありません。しかし私が実生活で知っている人びともほとんど架空なので、この断り書きには大した意味がありません」。

 マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているというとである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。

 私の直接的なアイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者かであることを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファロス(男根)である。なぜラカンにとってファロスはたんなる授精のための器官ではなく、シニフィアンなのか。伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力を行使する立場に立たせる。王が手に錫杖(しゃくじょう)をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。この去勢は、私が象徴的秩序に取り込まれ、象徴的な仮面あるいは称号を身にまとうという事実そのものによって起きる。去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。したがってわれわれはファロスを、私の存在の生命力をじかに表現する器官としてではなく、一種のしるし、王や裁判官がそのしるしを身につけるのと同じように私が身につける仮面である。ファロスとはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。

 この落差がある以上、主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。だから主体は自分の象徴的称号に疑問を抱く。これがヒステリーだ。「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」。あるいはシェイクスピアのジュリエットの言葉を借りれば、「どうして私はその名前なの?」 「ヒステリー」と「歴史(ヒストリア)」との間の類似性には真実が含まれている。主体の象徴的アイデンティティはつねに歴史的に決定され、ある特定のイデオロギー的内容に依存している。これこそが、ルイ・アルチュセールが「イデオロギー的問いかけ」と呼んだものである。われわれに与えられた象徴的アイデンティティは、支配的なイデオロギーがわれわれにどのように--市民として、民主主義者として、キリスト教徒として--「問いかけ」たかの結果である。ヒステリーは、主体が自分の象徴的アイデンティティに疑問を抱いたとき、あるいはそれに居心地の悪さを感じたときに起きる。「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、私をして私をこんなふうに求めさせるののでしょう」 『リチャード二世』はヒステリー化をめぐるシェイクスピアの至高の作品である(対照的に『ハムレット』は強迫神経症をめぐる至高の作品だ)。王が、自分が王であることに対して次第に疑問を膨らませていく、というのがこの劇のテーマだ。私を王たらしめているのは何か。「王」という象徴的称号が取り去られたとき、私の何が残るのか。


 私には名がない、称号もない。
 洗礼のときに与えられた名前もない。
 それも奪われてしまった。なんと悲しいことか。
 いくたびも冬をしのいできたこの身が、
 今になって、自分を呼ぶ名前がないとは。
 ああ、この身が雪だるまの王であればよかった。
 そうすれば、ボリンブルック[リチャードに退位を迫るヘンリー]という太陽に照らされて
 溶けて、水しずくとなって流れ去ることもできたろうに![第四幕第一場]

スロヴェニア語訳では、二行目が「どうして私は私なのか」と訳されている。これは明らかに詩的に意訳しすぎだが、彼の窮地の核心を表現していることは確かだ。象徴的称号を剥奪されたリチャードのアイデンティティは、陽に当たった雪だるまのように溶けてしまう。

 ヒステリー患者にとって一番の問題は、自分が何者であるか(自分の真の欲望)と、他人は自分をどう見て、自分の何を欲望しているのかを、いかに区別するかである。このことはわれわれをラカンのもうひとつの公式、「人間の欲望は他者の欲望である」へと導く。ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。アウグスティヌスがよく承知していたように、羨望と怨恨とが人間の欲望の本質的構成要素である。ラカンがしばしば引用していた『告白』の一節を思い出してみよう。アウグスティヌスはそこで、母親の乳房を吸っている弟に嫉妬している幼児を描いている。

 私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。
 青い顔をして、きつい目つきで乳兄弟を睨みつけていました。[『告白』第一巻第七章]

ジャン=ピエール・デュピはこの洞察にもとづいて、ジョン・ローズの正義論に対する納得のいく批判を展開している。ロールズ的な正しい社会のモデルにおいては、不平等は、社会階級の底辺にいる人びとにとっても利益になりさえすれば、また、その不平等が相続した階層にはもとづいておらず、偶然的で重要でないとみなされる自然な不平等にもとづいている限り、許される。ロールズが見落としているのは、そうした社会が必ずや怨恨の爆発の諸条件を生み出すだろうということである。そうした社会では、私の低い地位はまったく正当なものであることを私は知っているだろうし、自分の失敗を社会的不正のせいにすることはできないだろう。

 ロールズが提唱するのは階層が自然な特性として合法化されるような恐ろしい社会モデルである。そこには、あるスロヴェニアの農夫の物語に含まれた単純な教訓が欠けている。その農夫は善良な魔女からこう言われる。「なんでも望みを叶えてやろう。でも言っておくが、お前の隣人には同じことを二倍叶えてやるぞ」。農夫は一瞬考えてから、悪賢そうな微笑を浮かべ、魔女に言う。「おれの眼をひとつ取ってくれ」。今日の保守主義者たちですら、ロールズの正義の概念を支持するだろう。2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。

 ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考える。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人びとを抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。この要求の必然的帰結は、いうまでもなく禁欲である。平等に楽しむことを強要することはできない。われわれに強要できるのは、みんなが平等に禁止することである。しかしながら忘れてはならないのは、今日のいわゆる寛容な社会では、この禁欲主義はそれの正反対の形、すなわち「楽しめ!」という一般化された命令の形をとるということである。われわれはすべてこの命令に呪縛されており、その結果、われわれの楽しみはかつてないほど妨害されている。ナルシシズム的な自己実現と、ジョギングをして健康食品をたべるという禁欲的な規律を合体させているヤッピーを思い出そう。おそらく、ニーチェが「末人(ラストマン)(末期の人間)」という概念を発想したとき、念頭にあったのはそういう人間ではなかろうか。今になってようやく「末人」の輪郭が見えてきた。それは広く流布した快楽主義的禁欲主義という姿をしている。現代の市場には、ありとあらゆる種類の、有害物質を除去した食品が溢れている。カフェイン抜きコーヒー、脂肪のないクリーム、アルコールの入っていないビール、等々。ヴァーチャル・セックスというのは「セックス抜きののセックス」、死者(もちろん味方の)を出さない戦争というコリン・パウエルの主義は「戦争抜きの戦争」、政治を専門家による行政力として解釈し直そうという最近の風潮は「政治抜きの政治」、リベラルな多文化主義というのは、<他者性>を抜き去った<他者>の経験ではなかろうか(魅惑的なダンスを踊り、現実に対してエコロジー的に健康的で全人的(ホリスティック)なアプローチをするという理想化された<他者>のイメージばかりが強調され、妻を殴るといった面は表に出されない)。ヴァーチャル・リアリティは、実質を抜き取られた製品を提供するというこの手続きを明快に単純化している。それは実質を、すなわち抵抗する<現実界>の中核を抜き取られた現実(リアリティ)そのものを提供する。カフェイン抜きのコーヒーが本物ではないにもかかわらず匂いも味も本物と同じであるように、ヴァーチャル・リアリティは現実ではないにもかかわらず現実として体験される。すべてが許される。われわれはなんでも楽しめる。それを危険にするような実質が除去されてさえいれば。

 「私が欲するものから私を守って」というジェニー・ホルツァーの有名な宣言は、ヒステリーの立場の根本的な両義性を実に正確に表現している。このフレーズは標準的な男性優位主義者の智恵への皮肉を込めた言及とも読める。その智恵とは、女は放っておくと自己破壊的な怒りに身を委ねる危険性があるので、好意的な男性の支配によって女自身から守らねばならないということだ。つまり、「私の中にあって、私には抑えることのできない、過剰な自己破壊的欲望から、私を守って」。いっぽう、最もラディカルな読み方をすれば、このフレーズは、今日の父権的な社会において女の欲望は根源的に阻害されているという事実を指している。女は、男が望んでいること、つまり男から欲望されることを欲望する。この場合、「私が欲するものから私を守って」という言葉は次のような内容を意味する。「まさに私が自分の本当に心の奥底から望んでいることを表現しているように見えるとき、その『私が欲すること』はすでに父権的秩序によって私に押しつけられたものだ。父権的秩序は私に、何を欲するべきかを指示するのだ。したがって私の解放の第一条件は、私の阻害された欲望の悪循環を断ち、私の欲望を自立的に公式化することだ」。これとまったく同じ両義性が、1990年代初頭にバルカン半島を眺めていた西側のリベラルの視線の中にも、明らかに見てとることができたのではなかったか。一見したところ、西側の介入は、「私の欲するものから私を守って」、つまり民族浄化や輪姦へと導いた自己破壊的な情熱から私を守って、というバルカン諸国の想像上の呼びかけを、右に挙げた後者のように読んだらどうだろう。この欲望の非整合性をまるごと受け入れること、そして欲望自身の解放を妨害しているのは欲望そのものであることをじゅうぶんに受け入れること、これがラカンの苦い教訓である。

 このことはわれわれを再び<知っていると想定される他者>へと連れ戻す。それはヒステリー患者にとって究極の<他者>であり、彼あるいは彼女のたえざる挑発の標的である。ヒステリー患者が<知っていると想定された他者>に期待するのは、ヒステリー的な行き詰まりを打開してくれる解決方法、すなわち「私は誰か。私は、本当は何を欲しているのか」という問いに対する最終的な回答である。分析家はこの罠にはまってはならない。治療の間、分析家は<知っていると想定された他者>の地位を占めているが、分析家の戦略はその地位を掘り崩し、人の欲望に対する保証は<大文字の他者>の中にはないということを患者に気づかせることである。 


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